はじめまして!
マインド&スピリチュアルカウンセラーの小崎(こさき)まきこです。
私の自己紹介をさせてくださいね。
現在の主な活動
私はベビーマッサージ教室やアロマ教室の講師を経て、
現在マインド&スピリチュアルカウンセラーとして、これまでに1000人以上の方のサポートをさせていただいています。
ですが、独身時代はふつうのOL、地方に嫁いだあとは専業主婦をしていました。
子どもが1歳の時に起業し、今も子育てをしながら家庭と仕事の両立をはかり、
地方にいながらオンラインで全国のお客様と関わらせていただいています。
クライアント様の中には、
・アロマセラピスト
・プロコーチ
・教員
・エステティシャン
・カメラマン
・保育士
・ベビーマッサージインストラクター
・会社経営者
・ネイリスト
・会社員
など多種多様な方がおられ、住まいも日本全国にとどまらず、
海外在住の方もいらっしゃいます。
主に20代~40代のお母さんに、
「生きづらさを手放し、幸せな人生と家庭と築く方法」
をお伝えさせていただいています。
専業主婦から起業するまで
地方住まいのただの専業主婦だった私が、なぜアラフォーで起業しようと思ったのか。
そのわけは今から30年近くも前の、私が中学生だったころにさかのぼります。
難病を発症した思春期
15歳の時、猟奇的殺人事件を題材にしたサスペンス映画「羊たちの沈黙」
を見たことがきっかけで、私は心理学に興味をもちました。
子供のころから繊細で感受性が強く、自分の中に犯罪者と紙一重の危ういものを感じていたので、映画にでてくる人々の心の闇に何か無視できないものを感じたからかもしれません。
自分をコントロールできるようになるために、
「将来は心理学について学びたい」
そう思っていた16歳のある日、突然、
筋肉が溶解していく難病を発症。病院に運ばれた時、余命は2週間と言われましたが、1カ月半の入院のすえ、奇跡的に助かりました。
退院した時、この世の何もかもが美しく見えました。
雨上がりのアスファルトの匂いや、椿についた雫、真っ青な青空の美しさに感動して、涙がでたのを思いだします。
この時初めて、これからも当たり前に続くと思っていた自分の人生が、限りあるものであることを痛感したのです。
運動は一切禁止となり部活も辞めざるを得ませんでしたが、日常生活を送っているだけでも、たびたび再発し寝たきりに。
健康が取り柄だった女の子は、一瞬にして周囲から腫れ物あつかいされる難病の子になっていました。
持病があるということで、希望の大学への学校推薦も断られ、なんとか第三希望の心理学科がある大学へ進学。
念願の心理学を学ぶ日々が始まりました。
阪神大震災が起こった大学生時代
そして18歳。
大学1年生の冬に、阪神淡路大震災が起こり、
祖母は一瞬で倒壊した家屋の下敷きになって他界しました。
地震当日、すぐに被災地に向かった私たち家族は、どこに埋まっているのかわからない祖母を探して手を血だらけにしながらがれきを掘りましたが、あまりの惨状にどうすることもできず、
あちこちのがれきの下から聞こえていた助けを求める声が途絶えていくのを、ただ聞いているしかありませんでした。
この地震をきっかけにPTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉が世間一般に知られるようになり、
私は将来カウンセラーなどの人を癒す仕事がしたいと思うようになったのです。
持病はまだ不安定で時々寝たきりとなりましたが、
そんな私だからこそ、辛い気持ちの人に共感することができる、
「君は繊細過ぎるから、カウンセラーの仕事はやめておきなさい」
と反対されていました。
当時は不景気で、新卒の就職率は4割を切る時代。
私は教授のアドバイスと自分の適性も考えたうえで、カウンセラーの夢をあきらめ、不動産業界の営業職へ就職することを選びました。
何もかも失った社会人時代
新卒で入社した不動産会社では、若さゆえのがむしゃらな努力で、新人ながら成果を出すことができ、営業成績は全店舗でトップ3に入ることができました。
しかしそこで待っていたのは先輩たちの嫉妬。
根も葉もない噂話を流され、私は同期からも白い目で見られるようになりました。
また上司がトラブルを起こした案件を引き継ぎ、ストレスから身も心もボロボロに。
周りが全て敵に見えて、ポケットにはカッターナイフを入れて持ち歩く日々。
私の心は、昔観た映画の犯罪者のように、一触即発の状態でした。
そんな姿をみて心配した父親からの
「辞めてもいい」
という一言で退職を決意。
運よく他の不動産会社に引き抜かれ、心機一転またがむしゃらに仕事をしていた時、
突然、弟が自殺してこの世を去ってしまったのです。 忘れもしない2000年の10月31日。
今では世間がハロウィンのイベントで盛り上がる日。
私は仕事に出ていましたが、知らせを受け、駅の歩道橋でしゃがみこみ大声をあげて泣きました。
病院へかけつけて対面した弟の変わり果てた姿、
合流した両親とともに自殺現場の検証立ち合い・事情聴取など、その日は悪夢のような人生で一番長い1日でした。
私たち家族は、弟を助けられなかった自分たちを激しく責めました。
「どうして気づいてあげられなかったんだろう」
地震を経験して以来、両親はボランティア活動などもしていましたが、一番身近な家族を救うことができなかったのです。
特に母は弟を溺愛していたので、私は
「余命もわからない難病におかされている自分が死ねばよかった」
と強く思いました。
おそらくこの時に私のセルフイメージは著しく下がり、
「幸せになれない思考」
を生み出してしまったのだと思います。
さらにこの時期、つづけて友人が病死。
元カレのストーカー被害にも悩まされ、短期間で人生で最大の悲しみとストレスを味わった私は、
朝の通勤電車で
パニック障害を起こしてしまいました。
それからは過呼吸を防ぐための袋をかかえながら通勤する日々。
精神的にギリギリのところでがんばっていましたが、飛び込み訪問の営業中、お客様から、
「おまえみたいな何の悩みもなさそうな若い女に何ができるんや!」
と名刺を破かれ、投げつけられたことがきっかけで、
ついに張りつめていた糸が切れ、朝起きることも仕事に行くこともできなくなってしまいました。
鬱になり引きこもりへ
病院で鬱病と診断され、2か月間の休職。
たった2ヶ月で深い傷が癒えるはずもありませんが、
自分の居場所がなくなることに危機感を覚えたわたしは、職場復帰。
しかし、
すぐに会社が倒産し、突然職を失ってしまいました。 この時の私はまだ25歳。
若すぎる私には受け止めきれない辛い現実の数々に、
「こんなに苦しいなら死んだほうがマシだ」
と思いつめ、夜中に弟の遺骨をもって家を飛び出し、電車に飛び込もうとしました。
でも、足がすくんでできませんでした。
誰かの通報を受け、やってきた警官から逃げるように近くの公園に身を潜めましたが、すぐに保護されて警察署へ連れていかれました。
警察署へ迎えにきた両親の顔をまともに見ることができなかった。
息子を失って一番悲しいのは両親のはずなのに、
私はその両親にさらに悲しみと苦しみを与えてしまっている。でもこの辛さからどうにも逃れることができず、
両親を助けることもできない・・・。
自分がどうしようもなく無力で無価値に感じました。
ただ息をしているだけの肉体のようでした。
その後2年間、家に引きこもり、私はネットの世界へと現実逃避していました。
そのあいだに同じ痛みをもつ人と気持ちを吐き出せる場所がほしいと思い、
ネット上のコミュニティーで「自死遺族の会」を発足。
その会で所属している同じ境遇の遺族たちが、私の心の支えとなったのです。
この会は今でも続いていて、
常時500人以上の方が在籍しており、この25年間の運営で在籍数は延べ2000人は超えています。
当時は自死遺族がこんなにもいることに驚きましたが、思えばこれが
「想いを共有する人たちが集まる場所」
を作った最初でした。
傷が癒えないまま社会復帰
ネットの世界へ現実逃避している間に、少しずつバイトを始め、だんだん社会復帰できるようになったのは20代後半のこと。
元々繊細だった私は、深い悲しみが癒えないまま、より傷つきやすくなっていました。
そんな自分を守るため攻撃的な性格となり、いつも職場の人間関係でトラブルをかかえては転職を繰り返す日々。
30代になった頃、実家を出て、ある男性とお付き合いをはじめました。
そしてプロポーズされたのを機に、ついに鬱の薬を手放すことができたのです。
経済的に裕福な男性だったので、その時の私は幸せになれる喜びよりも、
「もう働かなくていいんだ。
もう職場の人間関係にわずらわされなくていいんだ」
と辛いことから逃げられる安堵感を感じたのを覚えています。
しかし、ほっとしたのもつかの間、
婚約したとたん彼は豹変し、DVを受けるようになってしまいました。
メンタルの弱かった私はすっかり洗脳されていて、しばらくDVを受けていることにすら気づいていませんでしたが、身体は正直でそのストレスから新たな病気を発症。
入院・手術を口実に、仕事をやめて一人暮らししていた部屋を引き払い、彼から逃げるように実家に帰りました。
事実上の婚約破棄です。
ですが簡単には逃げられず、元婚約者からのストーカー行為は1年ほど続きました。
式場のキャンセル、知人友人たちへの連絡などもあり、とてもみじめな気持ちでした。
「どうして私の人生はうまくいかないのだろう」
不幸なことばかり起こるし、嫌な人間ばかり寄ってくる。
幸せはやってくるとすぐに遠ざかってしまう・・・。
何か私に問題があるのではないか?
という考えが頭に浮かびましたが、すぐに打ち消し、私はこれまで通り
「ぜんぶ周りの人や環境が悪い」
「わたしは間違ってない」
そう決めつけて自分を見つめなおすことはしませんでした。
ついに結婚、一時の母へ
その後、縁あって地方在住の男性と結婚。
出産はできないかもと言われていましたが、
不妊治療の末、38歳で男の子を出産することができました。
しかし高齢出産のためか予後が悪く、産後1ヶ月で手術を受けるなど、体力的にも気力的にも余裕がない生活が始まりました。
夫は仕事が忙しく、家事も育児も手伝わずに、帰ってきたらすぐに寝てしまう。
知り合いのいない土地で、頼れる人もおらず、夫は助けを求めても理解されず、話し相手にもなってくれない。
私の孤独は深まるばかりでした。
全く寝てくれない息子にも手を焼き、
産後うつから育児ノイローゼとなり、夫とは険悪な状態が続きました。ホルモンバランスの乱れもあって、何を言われてもカッとなり、毎日はらわたが煮えくり返るほどの怒りをこらえ、
「息子が自立したら離婚してやる!」
と思いながら、離婚届をお守りがわりにして過ごしていたのです。
そんな時、気分転換に行ったベビーマッサージ教室の先生が、とても素敵な女性で、太陽のようにあたたかな笑顔で包み込んでくれる様子に安らぎを覚えました。
ふともらした私の孤独な気持ちにも優しく寄り添ってくれ、
「よくがんばってるね」
そう声をかけてくれた瞬間、私の中でこらえていたものが一気に爆発し、号泣してしまったのです。
ほんとは、
ずっと誰かにそう言ってほしかった。
これまで私なりにがむしゃらにもがいて、がんばってきた人生を初めて認めてもらえた気がしたのです。
号泣したあとは、とてもすがすがしい気持ちになるとともに、久しぶりに心から笑えた気がしました。
何回かベビーマッサージ教室に通ううち、
私も先生のように産後ママの心の支えになりたい。
孤独な子育てをしているママが集う場をつくりたい。
何より先生のような太陽のような人になりたい。
という思いがふくらみ、先生に相談したところ、ベビーマッサージの資格をとって教室を開いたらと言ってくれたんです。
まさか、ただの専業主婦の私がベビーマッサージ教室を開くなんて、その時は想像もしていませんでしたが、じっくり家に帰ってから考えてみると、どんどんやりたい気持ちがわいてきました。
この先、社会復帰をしようにも、あまり職業の選択肢がない地方住まい。
生活のためと割り切り、やりたい仕事ができずに働いている自分は想像できなかった。
その点、個人事業主になれば、
自分のやりたい仕事ができ、やりがいも十分。収入も得ることができ、
知り合いのいない土地で人とのつながりができるかも。
その時の私は、もうすでに孤独から脱出できた気がして、とてもワクワクしていました。
ついに起業!ベビーマッサージ教室をオープン
それから1年かけて資格を取得。
乳幼児をかかえながらの試験勉強は大変でしたが、目標に向かってがんばることは楽しく、一時的に夫との不仲や辛い子育てから解放されるひと時でした。
そして息子が1歳半の時に、
ついにベビーマッサージ教室をスタートさせることができたのです。
社会とのつながりや、久しぶりに仕事ができる喜び、やりがいを手に入れ、
たくさんのお客様に囲まれて生き生きと笑っている自分を想像していました。
ベビーマッサージの良さを伝えようと、夜な夜なブログを書き続けました。
ところが毎日ブログを書いても、チラシを作って配っても、お客さまは全く来ませんでした。
外に出れば、赤ちゃん連れのお母さんをたくさん見かけます。
なのに、誰も来ないのです。
なぜなのか、わけがわかりませんでした。
頻回授乳の合間をぬって、ホームページを作ったりブログを書いたりした結果、寝不足でイライラが募り、夫や子供に当たる日々。
思うように集客できず、
・地方だから集客できない
・知り合いがいないから、口コミがおこせない
・息子が手がかかるから仕事に没頭できない
・頼れる実家がないから、一人で全部やるしかない
・ベビーマッサージ教室じたいが下火だ
と、私はまた今まで通り自分以外の要因のせいにしていました。
ここでまたあの思いにとらわれたのです。
「どうして私の人生はうまくいかないのだろう」
やっと幸せになれると思ったのに夫とは不仲だし、念願の子供を授かったのに子育ては辛くてたまらない。離婚したくても経済的に自立できないし、仕事はうまくいかず、そのストレスを子供にまでぶつけて、私は最低な母親だ。
いつも優しく愛情深く、理想のお母さんになろうと思っていたのに、そうなれない自分、誰かに相談してもかえってモヤモヤする自分が本当に嫌だ。
と思うものの、どこをどう直せばいいのかわからず、またもや私の思考は迷宮入りしました。
とりあえずベビーマッサージ教室以外にも、資格を生かしてアロマ教室をはじめよう!と思い立ちました。
情報収集をしていたところ、常に満席のアロマ教室をされている素敵な女性セラピストのブログを発見したのです。
それがマインドの恩師との出会いでした。
先生が、ブログに書いていた
「人を癒すにはまず自分から」
という言葉がなぜか心に刺さりました。
40歳で心を癒す
そのまま勢いで先生の体験ワークショップに参加。
「講師やセラピストが自分を癒していないままお客様と接すると、心からお客様に寄り添えないばかりか、ネガティブなエネルギーを渡してしまう。
またお客様からネガティブなエネルギーを受け取ってしまうこともある」
と聞き、これまで理由のわからなかった経験が、一気に腑に落ちました。
元々人を癒したいという願望のあった私は、カウンセラーになるという夢が断たれたあと、エステでバイトをしたことがありました。
でもたった1ヶ月の間に、体が重くて動かなくなるほどのダメージを受けたのです。
だんだん人相も変わっていき、バイトは1ヶ月で辞めざるを得ませんでした。
また、自分が癒されようとエステや整体を受けに行った時も、なぜか施術が終わると余計に体が重くなってしまうことが多々ありました。
しんどそうな友人の肩をもんであげただけで、ひどい頭痛になったこともあります。
そういった経験から、自分が何かを受け取りやすい体質であるということに薄々気づいていたため、人に触れたり施術を受けることには慎重になっていました。
教室を開いて多くのお客様と関わったら、会社で働いていた時と同じように、またしんどくなってしまうかもしれない。でも自分の教室だからあの時のように逃げることはできない。
そう感じた私は、直感でマインド講座への申し込みを決めました。
その講座は、心を癒し存在を整えるだけでなく、お客様とのやりとりに必要なセラピストマインドも学べるというもの。
10か月間の講座中、私は徹底的にこれまでの自分と向き合うことになりました。
そして、
波乱万丈な人生を、周りのせいにしたり運命だと思ってあきらめていたけれど、
私の心が招いてしまったことだったのだ
ということを知ったのです。
癒されない心がネガティブな思考をよび、その思考が幸せになれない言動を引き起こす。
すべてはその連鎖でした。
40年間の自分の棚卸しをするかのような作業は辛く、時に気持ちが1ヶ月もふさぎこんだこともありました。
講座を修了しても、特に現実は変わっておらず、これからどうなるのかも今いちピンときていませんでした。
ただ心の中は穏やかになっていて、胸の内でずっとくすぶっていた火種のようなものは消えつつありました。
心を癒したら現実に変化
変化を感じたのは、講座を修了して4カ月ほどたった頃。
その時わたしはアロマ教室のオープンに向けて準備中だったのですが、ふと夫が家事育児をよく手伝ってくれるようになったことに気が付いたのです。
またそれまではご飯を作っても何も言わなかった夫から
「おいしかったよ」「ありがとう」
などの言葉がでるように。
まさに青天のへきれきでした。
それから意識して、講座で学んだことを実践していくと、
夫はどんどん家事育児を手伝う愛妻家に変身し、ベビーマッサージ教室も人が集まるように。
またオープンしたアロマ教室も満席続きの人気教室となったのです。
あれほどわずらわしかった人間関係もストレスなく誰とでも付き合えるようになっていました。
どれだけお客様の相談にのっても、
自分を守る術を身につけたおかげで、ネガティブなエネルギーを受けることもなくなっていました。
家庭も仕事も人間関係も、基本は同じマインドであるということに気が付いたのです。
心の変化が夢を叶えてくれた
母親であるからには家庭も仕事も、そしてできれば人間関係も全部うまくいってほしい。
そのどれかだけ、では満たされない。
その成功のカギを握っているのが、私が学んだ
「心を癒し存在を整えるマインド」
試しに私が学んだことをお客様にお伝えしてみると、
夫婦関係が激的によくなったり、収入が増えたり、義実家との関係が改善するお客様があとをたちませんでした。 その効果に、他のお客様からももっと教えてほしいというご要望をいただき、2018年よりマインド講座を開講。
あっという間に他府県からもお問い合わせをいただき、オンラインでもサポートさせていただけるようになりました。
たくさんのお客様の家庭の幸せと仕事の成功を後押しし、豊かな人生をおくるお手伝いをさせていただけるようになったのです。
同時に
「人を癒す仕事がしたい」
という、私の長年の夢が叶った瞬間でもありました。
最後に
今わたしは、念願のマイホームを夫に建ててもらい、大好きな家で大好きな物に囲まれ、毎日リラックスした穏やかな気持ちで過ごしています。
最初は起業を主婦の気まぐれとしか思っていなかった夫も、全面的に仕事を応援してくれるようになりました。
私がほしかったのは、ラグジュアリーな生活でも、刺激的な毎日でもなく、家族と過ごす落ち着いたささやかな暮らし。
波乱万丈で生きてきた私には、なんでもない日々がとても愛おしく、たわいない夫との会話や、子供の無邪気な笑顔など、平凡な毎日の中に豊かさと幸せを見出しています。
お客様の幸せを後押しするやりがいのある仕事に、気兼ねせず付き合える少数の友人たちとの楽しい時間。
誰とも比べない、私が幸せと感じる時間と空間と人。
私が望んでいたものは全て手に入れることができました。
これまで波乱万丈な人生を、がむしゃらにがんばることで変えようともがいてきた私には、こんなに穏やかで幸せな日々がやってくるなんて想像もしていませんでした。
ずっと人を癒す仕事がしたいと思い続けてきたのに、自身のメンタルの弱さから、なかなかそれが実現できず、今の仕事ができるようになるまでに20年もの月日を費やしてしまった。
「あと20年、いやせめて10年早くこの心の境地にたどり着いていたら、どんなに早く人生が変わっただろう」
なんどそう思ったかわかりません。
もちろんいろんな経験を経てこの年になり、私には最適のタイミングで出会えた学びであり、身につけられた知識だと思います。
でもお客様には、そんな遠回りをしてほしくない。
家族や友人、災害などで人が一瞬で命が尽きるのを見てきました。
私自身いつまで生きられるかもわかりません。
だからこそ、お客様には、時間に限りあるたった一度の人生を、一刻も早く輝かせてほしい。
どんな夢や仕事であれ、理想の実現のためには、まず自分の心を癒し整え、行動力をあげることが重要です。
そしてそれは、私のようにさまざまな経験をしたところで、自分ではなかなか気が付きにくいもの。
たとえ気が付いたとしても、それをどうすればいいのかわからないままの人がほとんどなのです。
私のように感受性が強くても、敏感でネガティブな人でも、人生がうまくいく方法があるということを知ってほしい。
人生における悩みや問題は、想像もしないことがやってきます。
その時にどんな悩みや問題も解決できる自分であれば「私はどんなことがあっても大丈夫」
という安心感をもって生きていくことができます。
喜びや幸せを受け入れる器をもち、悲しみや苦しみから学び成長できる、
豊かな心で生きることができれば、人生はうまくいくのです。
また、子供たちがそんな母親の姿を見て、夢を叶えられる考え方や行動力を自然と身につける。
そんな幸せの連鎖を起こす方法を一人でも多くの方にお伝えしたいと思っています。
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